コンクールに出場して思うこと
最近私立中学高校生のコーラス部を指導している。毎年NHKコンクールに出場しているので、指揮をして欲しいと言うのだ。しかし今さらコンクールと言われても、もう私にとっては過去の思い出になってしまっている。たしかに今までに15年以上コンクールに出場し、悲喜交々の中から生徒たちと一緒に成長させてもらった。私の合唱の原点でもあり、財産でもある。とは言うものの、その当時のクラブのやり方、コンクールに対する私なりの方程式を紐とくには、講師という立場でもあり、学校のシステム、その他様々な物理的条件が違う。だからと言って中途半端な指導だけはしたくない。プライドのような気持ちもあった。そんな思いが交差していたが、結局生徒たちの熱意に押され、出場することにした。その一番の理由は、今は私も審査員として中高生の合唱を聴く機会が多いが、アフターケアのないその場限りのアドヴァイスは、無責任で気楽と言わざるを得ない。口では何とでも言えるからである。それより純粋で素直な中高生と切磋琢磨して作り上げる音楽のほうが、はるかに重要な仕事だと思ったからだ。それは忘れかけていた気持ちでもあった。今はそんな生徒たちと接し、新鮮な気持ちで音楽作りができることに幸せを感じている。
NHK全国学校音楽コンクールは今年で77回目という歴史を重ねている。出場して思うことは、最近このコンクールを一般の人達は、どのように思っているのだろう。スポーツが純粋で一途なプレーに感動を与えるように、若者の命輝く合唱であれば、もっと人々の話題になるはずである。しかし最近のコンクールは、上位入賞をねらった選曲(歌というより器楽的、機械的)な難曲が目だつ。つまり内容の乏しい技術偏重の作品を取り上げる傾向がある。課題曲もNHKは今流行っている作曲家と言うだけで依頼してしまう。したがって昔のように後に歌い継がれる作品は生まれない。むしろポップス系の合唱のほうが人気がある。発声においても響きの低い喉声でボリューム(迫力)が優先する合唱が上位をしめることが多い。そこには、そのパワーで見事に歌いきった驚きはあっても、美しい日本語(言葉)で詩(物語)の世界を聴く人達と共有できる合唱が少ない。
コンクールは賞を取ることに一喜一憂するものである。私もかつてはそうであった。しかし、それを決めるのは少人数の審査員である。つまりその時の審査員の顔ぶれで左右してしまうことがある。納得のいかない審査を嘆くより、その会場に来た人達の心を動かす合唱を目ざすほうが、何か意味があるような気がする。
指導者や合唱界に携わる人達は、自分の主張や世界だけで合唱をやるのではなく、合唱本来のすばらしさ、魅力をすべての人達に伝える使命をもって欲しい。つまり自分達の満足感を満たすだけでの音楽であってはならないと思う。若い人達は素直なので、すぐに順応してしまうから。
合唱音楽は奥が深い。毎日新しい発見があり、もっと進化していかなければと思っている。
人の音楽を批評するのは簡単であるが、その人が作る音楽がそのすべてを物語る。